上新町曳山
KAMISHINMACHI HIKIYAMA
起 源:寛保元年(1741年)
ご神体:在原野業平(ありわらのなりひら)、供女(ともじょ)
家 紋:業平菱(なりひらびし)
見 越:龍神が竹内宿禰(たけうちのすくね)に乾珠・満珠を奉る図
大 彫:関羽、書を読むの図
八枚彫:蘭亭曲水の図
小脇彫:牡丹に錦鶏など
屋 根:大鳳凰
寛保元年、上新町の花山に人形と役者を乗せて曳き廻したのが、八尾曳山祭の始まりとされています。
御神体は、在原業平と供女。この人形は、富山藩前田家のひな人形であったものです。富山藩大仏師・治郎兵衛(じろべえ)による元禄年間の作品で、曳山起源より古いものです。
屋根には、天下が泰平になると姿を現すと伝えられる鳳凰が乗せられており、ひときわ目をひきます。
大彫は井波町番匠屋や12代田村輿八郎(たむらよはちろう)による迫力ある力作です。
ご神体
在原業平は忠孝を重んじた人であり、美男ながらも、伝えられるような優男ではありません。時には権力にも対抗し、文学にもすぐれ、風流を愛した人物で『古今和歌集』の代表的な歌人として、六歌仙の一人に数えられています。
元禄3年(1690)、上新町の町建を果たした信濃屋喜右衛門が藩主から拝領したと伝えられる人形「在原業平」は、昭和35年に実施した調査で「ト山阿ら町(富山荒町)大仏師治郎兵衛」という作人の名前が発見され、寛保元年(1741)の上新町曳山の起源より、さらに50年あまり古い歴史を有する人形だということが判明しました。
大 彫
関羽は、諸葛孔明、張飛らと力を合わせ、劉備玄徳を皇位につかせた大功臣で、身の丈八尺五寸、ひげの長さは一尺八寸で腹を過ぎるといわれました。関羽愛用の青龍刀の重さは八十二斤(18㎏)あまりで、いかなる大軍といえどもこれを振りかざして進めば、ことごとく道を開き、あたかも草が風になびくようであったと記されています。
見 越
神功皇后が朝鮮に渡ろうとしたとき龍神が現れ、皇后の参謀として活躍していた竹内宿禰(たけうちのすくね)に塩乾珠(しおふるたま)と塩盈珠(しおみつたま)を献上し、航海の安全を守護したという伝説を彫り上げています。塩乾珠は海の塩を干し、塩盈珠は満潮にする珠で、海水の満を自由に操ることができる不思議な霊力を秘めた宝玉です。
八枚彫
「蘭亭曲水」は、中国東晋時代の永和9年(535)3月3日に、王義之(おうぎし)が浙江省の蘭亭に文士を集め、流水に杯を流して杯が自分の前を過ぎる前に詩を作る、風流心あふれる趣向のことです。「蘭亭の図」に表現された文人たちの知性豊かな楽しみは「曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)」とも言われ、風雅の極みを表現しています。
屋 根
鳳凰は天下が泰平になると姿を現すと伝えられる空想上の瑞鳥で、『荘子』の『内篇・逍遥遊』に出てくる鵬(おおとり)のことです。また鳳凰はそれぞれ二羽の鳥で「鳳」は雄、「凰」は雌をあらわすとも伝えられています。