八尾町人の心意気を今に伝える豪華絵巻
八尾の歴史
江戸時代、八尾の町は蚕種(さんしゅ)、生糸、和紙、木炭など山あいの生産物を売買する集散地として栄えました。この町の財力は、富山藩の財政蔵として御納戸所(おなんど)と言われ、富山藩の収益のうち多い時には6割以上を賄えたほど豊かでした。八尾町人たちは自分たちが築いた財力を基盤に、贅を尽くした彫刻や彫金、そして漆工・金細工などで飾った曳山を作りました。
曳山の起源
八尾曳山の起源は、寛保元年(1741年)に八尾八幡社の例祭が行われた際、上新町が花山を作りその上に、富山藩より拝領した在原業平(ありわらのなりひら)の人形(ひとがた)を飾って曳き廻したのが起源と言われています。その後、東町・西町・今町・諏訪町・下新町が曳山を作り、それぞれが財力を競いあうようにして豪華な曳山になっていきました。
曳山の構造
八尾曳山の構造は、二層の人形屋台形式になっています。上層部の4本の柱には、各町の紋が入った天幕が張られ、中には御神体の人形(ひとがた)が祀られています。下層部のすだれの中では、太鼓や笛、三味線を奏でる囃子方によって、曳山囃子が演奏されます。
また上層部の上には、天守閣のような豪華な屋根が飾られ、見る者の目をひきます。屋根の四隅には瓔珞(ようらく)と呼ばれる飾り金具が下げられていて、曳山の動きに合わせ心地よい音色を響かせます。
彫刻は下層後方の大彫(おおぼり)・上層後方の見越(けんけし)のほか、四方に飾られた8枚の八枚彫、柱の脇に飾られた8枚の小脇彫に高欄(こうらん)など、多数の彫刻が飾られます。そのどれもが色鮮やかに彩色が施されています。
他にも、組み物や屋根下の垂木などには金箔や蒔絵が、柱や長押(なげし)、車輪などには、漆や彫金が多数用いられており、豪華絢爛な装いとなっています。
曳山の美術的価値
彫刻の内容は、謡曲や文学、芸術に根ざした作品が多く用いられていますが、不老長寿を得た仙人たちの姿も随所に見られ、健康で長生きしたいという庶民の願いが表現されているようです。
さらに彫金や漆芸、彩色などの技法を駆使して、曳山全体がきらびやかに飾られており、先人の美的感性の高さと名工達の高度な技が光ります。
彫刻は、井波彫刻の開祖・北村七左衛門(きたむらしちざえもん)。彩色は高御座(たかみぐら)の彩色をしたといわれる浅井宏信(あさいひろのぶ)、幕府本丸御用となった木村立獄(きむらりゅうがく)、城端塗りの大家・小原治五右衛門(おはらじごえもん)。八尾の名工には、名棟梁・冨士原三平(ふじわらさんぺい)や、彫刻作家の横江嘉純(よこえよしずみ)の名作などがあります。